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更新日:2019年4月11日


2018、5、17

国家試験を受ける資格として、学校機関で三年間医学の基礎について勉強し、そこを

卒業したという証明がいるので、成績、出席日数などが必要となる。

僕は学校に通いながら仕事を続けるため、学校の近くに下宿することとした。

朝8時に学校に入り、3時半に学校を出て、音楽の仕事を終えて部屋に戻るのは9時。

そこから急いで風呂に入り、出来るだけ10時にベッドに入る。

次の朝5時に起きて、学校に出るまでに前の日の復習と今日の予習をして部屋を出て

、学校までの道のり15分を歩いて登校する。

その果てしない繰り返しの日々であった。

勉強内容は想像を遥かに超える難しさで、日々授業に付いて行くだけでアップアップ

していた。

あたりまえだが、学ぶ内容はすべて医学的なことで、実技の授業で白衣を初めて着た

時は、全く未知の世界に迷い込んで途方に暮れるような気持ちを覚えたことを記憶し

ている。

毎日が精一杯で、毎日声楽のレッスンは行っていても、生徒さんから見ればやはり心

ここにあらず、と見えていたのだと思う。

少しずつ離れて行く生徒さんや合唱団員が後を絶たなくなった。

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更新日:2019年4月11日

2018、5、15

10年間の音楽活動の集大成として、CDをリリースした。

この取り組みのためにも多大な労力とお金を使い、とにかく自分なりの一冊のまとめ

のようなものが出来た。

その仕事を終えた時に、さて自分は次に何に向かって歩き出すべきなのか、と立ち止

まって考えた。

その答えは意外にも音楽ではなかったのだ。

今までの人生で、音楽以外で自分のやるべきことを見出すことなど考えたことも な

かった。

しかし僕はある意味考えねばならない年齢を迎えていて、今ここでやりたいことに一

歩を踏み出さねば、おそらく一生それに挑戦することはあるまい、と強く思えたのだ。

10年間恐れと勇気のなさから現実味のあるものとして捉えらえられなかった未来に、

崖っぷちまで追い詰められてしまったという感じだった。

やるしかない、と思えた。

さてそうなると、音楽の仕事をどうするのか、家族を抱えて収入の問題はどうするの

かという大きな問題が待ち構えている。

そこから各方面に事情を話して、皆さんと一緒に対策を思案することとなった。

周りの人たちは皆僕の新しい試みにエールを送って下さった。

でも「頑張って下さい」という思いと、自分たちに降りかかって来る災難はまた別問

題である。

そう、結局僕は学校に三年間通いながら、夜と日曜日はレッスンを行うという方法を

取らざるを得なかった。

生徒さんにしてみればレッスンは時間を指定され、回数を減らされ、レッスンが始ま

る一秒前まで先生はパソコンを開いて難しい顔をしている。

合唱団では別の先生をあてがわれて、月一回だけ茶木が来る、という三年間。

少しずつ不満の声が聞こえて来ることとなった。

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更新日:2019年4月11日


2018、4、22 音楽の世界で、僕のその時に出来る僕なりの挑戦を繰り返していた。 それがとりあえずの一段落を迎えた時、僕はそれなりの年齢を迎えていた。 10年が過ぎていたのだ。 その間に通い続けていた鍼灸師の先生が他府県に引っ越されてしまったが、同じ治療 方法の鍼灸師などすぐ見つかるだろうと考えていた。 ネット検索や聞き込み、様々な情報を集めてみたが、同じような流派の鍼灸治療は容 易には見つからなかった。 その時にあの治療は、日本においてはとても特異的な流派なのだということが分かっ て来た。 もう諦めかけていたころ、あるピアニストの女性と練習前に世間話をしていた時、彼 女のお姉さんが鍼治療に通っていることを聞いた。 「お姉さん、どういう治療と言っている?」とその時も興味を持って尋ねた。 「私もお姉さんについて行って一度だけ治療を受けたんだけど、云々」と彼女は 説明した。 僕はそれを聞いて目を丸くした。 探し続けていたあの治療にとても似ているのだ。 でも、かといって同じ治療方法とは限らない。 連絡先を教えてもらって、あまり期待せずに出かけてみることとした。 僕の担当の先生は、僕より少し年上に見える寡黙な男性だった。 たんたんと治療を進め、ぽつぽつとしか話さない。 治療は探していたものと全く同じ方法であった。 「僕は以前~先生の治療を長く受けていたのだ」と説明すると「我々の師匠は一人で 台湾に渡り、中国人から直接中国古流の流派を伝授され、免許皆伝を得て帰って来た 人です。茶木さんが治療を受けていた先生も、我々と同じその師匠の門下になります。 でも門下生はとても少ないので、ほんの数人しかいません。この治療院は師匠が開 かれた本部ということになります」と説明を受けた。 なるほど、僕は偶然にも憧れの流派を日本に持ち帰った人物の下に辿り着いていたの だ。 後で分かったことだが、その日僕を担当した先生は、師匠と呼ばれている人物の日本 での一番弟子に当たる人物であったようだ。

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