2020、4、20
次に思い出すのが、僕が歌の勉強のためにドイツに旅立つ日、家の近くのスーパーの
前まで一緒に歩いて、大きなスーツケースを転がす僕を見送って「ほな、元気に行っ
てらっしゃい!」と声を掛けた母。
その後、僕は7年間帰国しなかった。
帰ったら妹に双子の子供が生まれていて、もう三歳になっていた。
母はお土産に持ち帰った香水を嬉しそうに服の上から振りかけていた。
それ以後を思い出そうとしても母の顔は浮かんでこない。
何故なのだろうかと考えると、おそらくその辺りから僕の視力が著しく下がって、
もはや他人の表情などは見ることができなくなっていたからだと思われる。
帰国後、僕は生活の拠点を大阪に移し、京都を離れることとなった。
そこから現在まで23年、ばたばたと日々を過ごしなかなか京都に足が向かなかったが、
それでも正月と夏には毎年母に会うべく生家を訪れていた。
その度に妹も含めて三人で夜遅くまで話したものだ。
先日、用があって京都に向かった。
いつものように京阪電車に乗って終点の出町柳駅で下車しタクシーを使う。
その道中、もう母のいない京都に向かうことが心の底の方で静かな寂しさとなって押
し寄せて来た。
家に到着して玄関を上がっても母はどこにもいない。
かわりに姪がいて、向かい合ってコーヒーを飲みながら母の日記を読んでくれた。
晩年母は絵手紙を習いに行っていて、その教室で提案されたのか毎日一言の日記を付
けて、そこに簡単な絵を添えて描くということを実行していたのだ。
年賀状にも必ず絵が描かれていて、周りのものは皆隠れた母の絵の才能に驚いていた。
日記には「天国の貴方、地獄に落ちていませんか?助けに行きましょうか」と父への
一言があったり「夫婦円満の秘訣は、離れていること」などと書いてあって大笑いした。
母の亡くなった日はくしくも父の命日で、あの二人はそんなに仲の良い夫婦だったか
な?と首を捻った。
そのあと姪と共に家の周りを散歩した。
姪は生まれてからずっとこの家でお婆ちゃんと暮らして来た訳で、彼女の中の喪失感
は大きかった。
以来妹も僕も母の夢は見ていない。
が、姪は夕べ夢にお婆ちゃんが出て来たらしい。
お母さん(妹)が二階に上がって来て「叔父ちゃん(僕)が来るからコーヒーぐらい入れ
たげてや、私は仕事があるから」と言った。
ふと後ろを見るとお婆ちゃんも階段を上がって来た。
「お婆ちゃん!生きてたん?!」と驚くと「ヘヘヘ」とお婆ちゃんがにやにやしてた、
というものだった。
そんな話をしながら、我々は近くにある工芸繊維大学の周りをゆっくり歩いた。
僕が小学校に上がる前にもよく母に連れられてこの辺りを散歩したものだ。
当時は周りが全部畑でどこを歩いても肥やしの匂いがしていたが、今は静かな住宅街
になっている。
でも誰もいない大学のキャンパスにまだ冷たい春の風がそよそよ吹き、木の葉をかさ
かさ揺らす情景は何も変わっていない気がした。
大阪では感じられない京都の風の香りと、京都の時間の止まり方があった。
僕も年老いたら、故郷であるこんな京都独特な静けさの縁側で静かに死を迎えたい、
と思えた。
思っていたよりも大学は大きく、我々は結局一時間以上その周りを歩いて、もう母の
いない家に戻って来た。
それから僕は陽が沈む前に京都を辞して大阪に向かった。
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