皆さんの家で使用している塩はどのようなものですか。

食塩と呼ばれているものですか、それとも天然塩ですか。

治療に来られる50歳以上の方々は、驚くほど皆血圧降下剤を飲んでいます。

医師に勧められて飲まされていることもありますが、血圧が高くなる原因を

年だから、と納得している人がほとんどです。

しかしこれが年とは関係なく、日常口にしている塩が原因とすればどうでしょう。

スーパーなどで売っている白いさらさらした塩、いわゆる食塩と呼ばれる企業が生成

しているものは、塩化ナトリウムという人工的な化学物質から作っています。

こういうものは1970年代に出て来るようになりました。

大量に生産できるし、ものすごく安価です。

口に入れるとピリッと刺激があります。

安いから皆これに飛びつきますが、毎日摂取していると塩化ナトリウムが血液中に蔓

延して、体がこりゃいかん、ということでバソプレシンというホルモンを分泌し

ておしっこを出なくして水分を血液中に回して薄めようとします。

その結果血液量が増えて、血管壁への圧力が増し、血圧が上昇して行くらしいです。

スーパーで買うパンなどにも大量に食塩が使用されていると思われます。

家で使用している塩だけを見てもだめで、醤油、ポン酢、漬物、味噌などにどのよう

な塩が使用されているかも見なければならないことになります。

我々の身体で大病を引き起こす原因が食塩にあることは明解です。

逆に天然塩にはカルシウム、マグネシウムなども多く含まれていて、カルシウムは

血圧を下げる効果があると言われています。

「一日に摂取する塩分は7グラムに抑えること」なんて言われますが、それは食塩

の場合で、天然塩ならもっと取っても大丈夫です。

そして我々の体は塩分(ミネラル)を必要としています。

外食の恐ろしさはそこにあります。

塩のことまで考えてくれている店はほとんど皆無です。

でもあることはあります。

良い塩を使えばそれだけ料理の味も勝るからです。

僕の場合、食べ放題のある店、やたら安い店、チェーン店(コストを下げることしか

考えていないから)、舌に刺激のある塩辛さの料理の店(客の喉を枯らしてもっとビー

ルを注文させようとする焼鳥屋など)などには近づかないようにしています。

食べ物だけにはお金を掛けましょう!

2020、5,5 阿波座に茶木鍼灸院を開設して、2年が過ぎようとしていた。 そのころも時間を見つけては師匠のところに通い、その都度ボロクソに言われながら も、少しずつでも技術を盗もうと躍起になっていた。 厳しい指導を受けながらも不思議とそれさえとても楽しく、その都度確実に獲得して 行く知識と技術を楽しんでいた。 一方、一年間勤め先を探し回った末、そのころには結局卒業時に学校から推薦しても らった治療院に勤めることとなっていた。 そして阿波座での茶木鍼灸院は、知り合いを治療する以外一向患者様は訪れなかった。 やはり厳しいものだな、と途方に暮れていた。 そのころ知人を通じてあるパソコン教室の先生と出会うこととなる。 その先生は「今あるホームページではだめです」と、どうやったら人が引き付けられ、

またその店を理解して足を向けてくれるか、犇めく治療院の中で、どのポイントに 着目すれば人の目に留まるかを説いて下さった。 そして親身になって一緒に新しいホームページを開設して下さり、一般のパソコン教 室の安い授業料だけで立派なホームページが出来上がった。 それに加えて、何かしら特別な技術を駆使してホームページを検索の一番上に上げて しまわれた。 本来これは特別な技術だけに多額な費用が発生するはずである。 しかし先生は「もうそんなことに大金を支払う時代ではないのです」と言われる。 そのことがどれだけ大きな変化を齎すか、僕は直ちに思い知ることになる。 治療の予約、問い合わせの電話が毎日のように飛び込んで来るようになるのである。

2020、4、20

次に思い出すのが、僕が歌の勉強のためにドイツに旅立つ日、家の近くのスーパーの

前まで一緒に歩いて、大きなスーツケースを転がす僕を見送って「ほな、元気に行っ

てらっしゃい!」と声を掛けた母。

その後、僕は7年間帰国しなかった。

帰ったら妹に双子の子供が生まれていて、もう三歳になっていた。

母はお土産に持ち帰った香水を嬉しそうに服の上から振りかけていた。

それ以後を思い出そうとしても母の顔は浮かんでこない。

何故なのだろうかと考えると、おそらくその辺りから僕の視力が著しく下がって、

もはや他人の表情などは見ることができなくなっていたからだと思われる。

帰国後、僕は生活の拠点を大阪に移し、京都を離れることとなった。

そこから現在まで23年、ばたばたと日々を過ごしなかなか京都に足が向かなかったが、

それでも正月と夏には毎年母に会うべく生家を訪れていた。

その度に妹も含めて三人で夜遅くまで話したものだ。

先日、用があって京都に向かった。

いつものように京阪電車に乗って終点の出町柳駅で下車しタクシーを使う。

その道中、もう母のいない京都に向かうことが心の底の方で静かな寂しさとなって押

し寄せて来た。

家に到着して玄関を上がっても母はどこにもいない。

かわりに姪がいて、向かい合ってコーヒーを飲みながら母の日記を読んでくれた。

晩年母は絵手紙を習いに行っていて、その教室で提案されたのか毎日一言の日記を付

けて、そこに簡単な絵を添えて描くということを実行していたのだ。

年賀状にも必ず絵が描かれていて、周りのものは皆隠れた母の絵の才能に驚いていた。

日記には「天国の貴方、地獄に落ちていませんか?助けに行きましょうか」と父への

一言があったり「夫婦円満の秘訣は、離れていること」などと書いてあって大笑いした。

母の亡くなった日はくしくも父の命日で、あの二人はそんなに仲の良い夫婦だったか

な?と首を捻った。

そのあと姪と共に家の周りを散歩した。

姪は生まれてからずっとこの家でお婆ちゃんと暮らして来た訳で、彼女の中の喪失感

は大きかった。

以来妹も僕も母の夢は見ていない。

が、姪は夕べ夢にお婆ちゃんが出て来たらしい。

お母さん(妹)が二階に上がって来て「叔父ちゃん(僕)が来るからコーヒーぐらい入れ

たげてや、私は仕事があるから」と言った。

ふと後ろを見るとお婆ちゃんも階段を上がって来た。

「お婆ちゃん!生きてたん?!」と驚くと「ヘヘヘ」とお婆ちゃんがにやにやしてた、

というものだった。

そんな話をしながら、我々は近くにある工芸繊維大学の周りをゆっくり歩いた。

僕が小学校に上がる前にもよく母に連れられてこの辺りを散歩したものだ。

当時は周りが全部畑でどこを歩いても肥やしの匂いがしていたが、今は静かな住宅街

になっている。

でも誰もいない大学のキャンパスにまだ冷たい春の風がそよそよ吹き、木の葉をかさ

かさ揺らす情景は何も変わっていない気がした。

大阪では感じられない京都の風の香りと、京都の時間の止まり方があった。

僕も年老いたら、故郷であるこんな京都独特な静けさの縁側で静かに死を迎えたい、

と思えた。

思っていたよりも大学は大きく、我々は結局一時間以上その周りを歩いて、もう母の

いない家に戻って来た。

それから僕は陽が沈む前に京都を辞して大阪に向かった。

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