2020、5,5 阿波座に茶木鍼灸院を開設して、2年が過ぎようとしていた。 そのころも時間を見つけては師匠のところに通い、その都度ボロクソに言われながら も、少しずつでも技術を盗もうと躍起になっていた。 厳しい指導を受けながらも不思議とそれさえとても楽しく、その都度確実に獲得して 行く知識と技術を楽しんでいた。 一方、一年間勤め先を探し回った末、そのころには結局卒業時に学校から推薦しても らった治療院に勤めることとなっていた。 そして阿波座での茶木鍼灸院は、知り合いを治療する以外一向患者様は訪れなかった。 やはり厳しいものだな、と途方に暮れていた。 そのころ知人を通じてあるパソコン教室の先生と出会うこととなる。 その先生は「今あるホームページではだめです」と、どうやったら人が引き付けられ、

またその店を理解して足を向けてくれるか、犇めく治療院の中で、どのポイントに 着目すれば人の目に留まるかを説いて下さった。 そして親身になって一緒に新しいホームページを開設して下さり、一般のパソコン教 室の安い授業料だけで立派なホームページが出来上がった。 それに加えて、何かしら特別な技術を駆使してホームページを検索の一番上に上げて しまわれた。 本来これは特別な技術だけに多額な費用が発生するはずである。 しかし先生は「もうそんなことに大金を支払う時代ではないのです」と言われる。 そのことがどれだけ大きな変化を齎すか、僕は直ちに思い知ることになる。 治療の予約、問い合わせの電話が毎日のように飛び込んで来るようになるのである。

2020、4、20

次に思い出すのが、僕が歌の勉強のためにドイツに旅立つ日、家の近くのスーパーの

前まで一緒に歩いて、大きなスーツケースを転がす僕を見送って「ほな、元気に行っ

てらっしゃい!」と声を掛けた母。

その後、僕は7年間帰国しなかった。

帰ったら妹に双子の子供が生まれていて、もう三歳になっていた。

母はお土産に持ち帰った香水を嬉しそうに服の上から振りかけていた。

それ以後を思い出そうとしても母の顔は浮かんでこない。

何故なのだろうかと考えると、おそらくその辺りから僕の視力が著しく下がって、

もはや他人の表情などは見ることができなくなっていたからだと思われる。

帰国後、僕は生活の拠点を大阪に移し、京都を離れることとなった。

そこから現在まで23年、ばたばたと日々を過ごしなかなか京都に足が向かなかったが、

それでも正月と夏には毎年母に会うべく生家を訪れていた。

その度に妹も含めて三人で夜遅くまで話したものだ。

先日、用があって京都に向かった。

いつものように京阪電車に乗って終点の出町柳駅で下車しタクシーを使う。

その道中、もう母のいない京都に向かうことが心の底の方で静かな寂しさとなって押

し寄せて来た。

家に到着して玄関を上がっても母はどこにもいない。

かわりに姪がいて、向かい合ってコーヒーを飲みながら母の日記を読んでくれた。

晩年母は絵手紙を習いに行っていて、その教室で提案されたのか毎日一言の日記を付

けて、そこに簡単な絵を添えて描くということを実行していたのだ。

年賀状にも必ず絵が描かれていて、周りのものは皆隠れた母の絵の才能に驚いていた。

日記には「天国の貴方、地獄に落ちていませんか?助けに行きましょうか」と父への

一言があったり「夫婦円満の秘訣は、離れていること」などと書いてあって大笑いした。

母の亡くなった日はくしくも父の命日で、あの二人はそんなに仲の良い夫婦だったか

な?と首を捻った。

そのあと姪と共に家の周りを散歩した。

姪は生まれてからずっとこの家でお婆ちゃんと暮らして来た訳で、彼女の中の喪失感

は大きかった。

以来妹も僕も母の夢は見ていない。

が、姪は夕べ夢にお婆ちゃんが出て来たらしい。

お母さん(妹)が二階に上がって来て「叔父ちゃん(僕)が来るからコーヒーぐらい入れ

たげてや、私は仕事があるから」と言った。

ふと後ろを見るとお婆ちゃんも階段を上がって来た。

「お婆ちゃん!生きてたん?!」と驚くと「ヘヘヘ」とお婆ちゃんがにやにやしてた、

というものだった。

そんな話をしながら、我々は近くにある工芸繊維大学の周りをゆっくり歩いた。

僕が小学校に上がる前にもよく母に連れられてこの辺りを散歩したものだ。

当時は周りが全部畑でどこを歩いても肥やしの匂いがしていたが、今は静かな住宅街

になっている。

でも誰もいない大学のキャンパスにまだ冷たい春の風がそよそよ吹き、木の葉をかさ

かさ揺らす情景は何も変わっていない気がした。

大阪では感じられない京都の風の香りと、京都の時間の止まり方があった。

僕も年老いたら、故郷であるこんな京都独特な静けさの縁側で静かに死を迎えたい、

と思えた。

思っていたよりも大学は大きく、我々は結局一時間以上その周りを歩いて、もう母の

いない家に戻って来た。

それから僕は陽が沈む前に京都を辞して大阪に向かった。

2020、4、12

僕が母を思い返す時、いつも瞼に浮かぶいくつかの時代の映像がある。

まず最初に浮かぶのは、窓から降り注ぐ午前の日差しを受けて明るく光る玄関の床に

四つん這いになって雑巾がけをする若い母の姿である。

僕はおそらく4歳ごろ、母は28歳というところであろうか。

その次は小学校一年に入学する前の学校訪問である。

弱視である僕を盲学校に入れることを深く悩んだ母は、おそらく決心できぬまま学校

へ相談に行ったのだと思う。

北大路通りを走る路面電車の駅を降りてから盲学校に着くまで、母は一言もしゃべら

ず、僕の前をどんどんと歩いて行く。

一体どうしたのだろうと僕は思いながら母の背中を眺めて歩いた。

その思いつめたような背中を今もよく覚えている。

次は盲学校小学部4年生の時、担任の先生が厳しい人で、それが嫌さに二人のクラス

メイトと共に学校を脱走して、6時間ほど歩いて僕のお婆ちゃんの家まで行った時の

ことだ。

そういう時にお婆ちゃんを求めるということは、やっぱりお婆ちゃんが好きだったの

だろう。

担任の先生が車で迎えに来て、学校の門を入ると、そこに三台のパトカーが止まって

いた。

三人の母たちが僕たちを引き取りに来て、家に帰るまで僕は酷く叱られると思ってい

たが、母はずっとにこにこ笑っていた。

何故なのかは僕にはさっぱり分からなかった。

次は僕が23歳のころである。

そのころ僕は大学院生で、学校を終えて帰って来た時にはもう暗くなっていた。

家に入り、誰もいないと思った暗い居間の明かりをつけると、そこにジャケットと帽

子をかぶったままの母が炬燵に座ってぼーっとしていた。

「なんやいたんか、なんで電気も着けずにいる?」と僕が驚いて尋ねると「あー」と

そのことに初めて気づいたように力なく声をあげた。

あの時おそらく父の入院している病院に呼ばれて、父の余命を告げられたのだろう。

母は父が亡くなる2週間前まで、僕と妹に事実を明かさなかった。つづく

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