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僕は彼がまだそれほど有名でないころから、何かの切っ掛けがあって彼の作品を読む

ようになっていた。

村上春樹。

いわゆる彼は突然に現れた。

何か大きな賞を取った訳でもなく、マスコミが飛び付きそうなドラマチックな背景が

ある訳でもなく。

ノルウェーの森がベストセラーになる前も、目立たないところでしこしこ作品を書い

てファンを少ないながらも獲得していた。

いわゆる文壇に認められてマスコミに押し出された作家ではなく、頭から読者にこわ

れて現れた作家と言えよう。

ノルウェーの森がベストセラーとなった後、文壇からの執拗な攻撃(虐め)が加速する

中、そのあまりのうっとうしさに日本を出てアメリカに渡り、ニューヨークの町を自

分の足で歩いて出版社を探したらしい。

いくら日本でベストセラー作家となっても、アメリカでは全くの無名。

一からの出発であったと。

しかし彼自身が把握していたかしていなかったか、彼の描く世界は、どの国でも受け

入れられるという性質を備えていた。

彼の描くものは、とても個別的で限定された日本社会の話が多いのだが、それがどう

して西洋でもアジアでも世界の人々に受け入れられるか今でも不思議だが。

とにかくそのことで今毎年ノーベル文学賞の候補に挙がる訳だが、一ファンとしては

そんなしゃらくさいものを取って欲しくない。


彼の作品には不思議な特徴がいくつか見られる。

読者をとても強い力で渦に引き込んで、そこから抜け出せなくするほどの魅力を与え

る一方、人によっては、いくら心を開いて読み返しても何が良いのか、どこが良いの

か全く理解できない、という者も多く存在するのである。

僕の周りにもそういう読者は何人もいるし、あの本好きの武田鉄矢さんも、村上さん

の本は何度か挑戦したけど何を書いているのか全く理解できない、とラジオで述べて

いた。

僕はもちろん前者のタイプで、読んで何が理解できないのかが理解できないのだが。


春樹さんの作品は、一回読むのと、二回三回読み返すのでは全く違う話に変貌する。

また読む時期を数年置いてから読み返すと、これまた印象ががらりと違ってしまうの

も特徴である。

ちなみに同様の現象を漱石の作品でも感じる。

「騎士団長殺し」という作品があるが、僕はこれを読んだ時に「ああ、春樹さんもも

うそろそろ終わりだな」と感じた。

がっかりしてしまったのである。

「1Q84」も同様にがっかりした。

何を描きたいのかが定まらず、読者にあっと思わせる幻想的な表現、アイデアばかり

が目立っているように思えたのだ。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」もまた同様。

それで数年彼の作品を読まなくなった。

先日久しぶりに「騎士団長殺し」「1Q84」をじっくり読み返してみた。

すると前回読んだ時の失望は全く感じられず、描こうとする物がくっきり見えて来た。

あれから改定した?と思えるぐらい印象が違う。

ぐいぐい引き込まれて一気に読んでしまった。

一度読んだぐらいでは読み手の記憶、理解、印象は曖昧なものだな、と痛感した。


どの作家でも結末を締めくくらず読者を放り出す、という手法が多いが、春樹さんの

作品に関してはそれが著しく激しい。

起承転結がないのだ。

そこが人によっては何を書いているのか理解できない、という感想になるのかもしれ

ない。


いずれにしろ僕は彼から受けた知識や考え方、はっと思わせる感じ方の転換など、多

くの影響を受けて来た。

自分とは全く違う人物だからこそ面白い。

様々な理由で、彼は現代の人気作家というだけではなく、歴史に残って行く作家のひ

とりではなかろうか、と思っている。

数十年経っても彼を研究する学者が現れるような。

ノルウェーの森で永沢さんが言っているように「文学でも音楽でもその他一般芸術に

おいて、時間の洗礼を受けられるものはとても少ない」と。

もちろん優れた作家というのは頭が良い、知識があるというだけでは成立しない。

本人にさえ把握できない素質のようなものが必要なのだろう。

僕にとっては彼によって考え込まされる、もしくは感じ方を転換させられてしまう、

というところですでに重要な存在である。

まだまだ老け込む歳ではないし、これからも新たな挑戦を楽しみにしたい。

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今、河村元気という人の小説を読んでいる。

この人は映画プロデューサー、脚本家などを仕事にしている人なので、小説は数える

ほどしかないが興味深いものを書いている。

彼が書くものを要約すると、人間はこの世に生を受けて本来何を求めて生きているの

か?という大テーマがあるようだ。


一つの話では、ある男が宝くじで3億円手にする。

そこで彼はその金を使って自分は何がしたいか、ということを10項目上げてみる。

借金を返す、家を新築する、世界一周の旅、毎週ゴルフに出かけて、毎日高級レスト

ランで食事して高級バーで酒を飲む。

腕組みをしながら考えて10項目上げてみても、どれもこれも心底うきうきはしない。

どれもこれもすぐに飽きてしまうだろうし、今までできなかったことをやってみたい、

というだけの一時的な興味に過ぎない。


また別の話では、病院で後一か月の余命を告げられる。

一か月の間に自分のやりたいことを精いっぱいやろう、と心に決めるが、それを10

項目上げようとしてもなかなか考え付かない。

主人公は呆然としてしまう。

そして最後に思いついたのが、初恋の彼女に10年ぶりに会いに行く、ということだ

った。

ところが彼女に会って余命のことを打ち明けても「そうなの?」と言われただけ。

おまけに付き合っていたころの不満を散々愚痴られて別れた。

女性は決して後ろを振り返らない生きものなのだ。

主人公たちが本当に求めているもの、心から幸せと感じられることは意外に金銭とは

関係のない子と、もしくはさほどの費用を要さないことがほとんどであることに気付く。


自分のことと鑑みても、確かにその通り。

自分が本当に幸せを感じられること、心から求め続けられることは金銭を必要としな

いことばかり。

でも手に入れるのがとても難しいことばかり。

彼の小説で幾度も紹介されるチャーリー・チャップリンの「ライムライト」の中のセ

リフに「人が生きるために必要なのは、切望、勇気、そして少しばかりの金さ」とい

うのがある。

人々は若い時には自分が何が好きなのか、何を求めているのかを探す心を持っている。


しかし年を重ねるごとに金銭を手にすることだけに切望を集約されて行く。

おそらくそれは切望する対象を見失うからだろう。

貧乏な者も欲しいものが手に入らず、金さえあれば幸せを満喫できる、と勘違いし始める。


我々は本当は何を求めて生きているのだろう。

ふと立ち止まって、空を見上げて考えてみる必要があるかもしれない。




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寒い時期もピークを迎えて、腰の痛みを訴える患者様が多い。

まず一つは腸を冷やしている、ということが原因と思われる。

ビールを初めとした冷たい飲み物を多量に取り、慢性的に腸を冷やし、それが腰の痛

みとなって症状に出る。


次は寝ている時に冷やしてしまっている、という問題。

使っている布団やマットレスの種類や、その環境。

床からの寒気が寝具を通して体に伝わってしまっている場合。


次に入浴の問題。

こんなに寒くてもシャワーで済ませている人がとても多い現状。

忙しくてお風呂を沸かす時間がない。

面倒くさい、など。

シャワーでも体は暖まるがそれは表面だけのことで、表面が熱くなれば体の深部から

冷やそう、という力が働くため、結果体はとても冷える。


そしてもう一つ、仕事場での足もとの冷え。

パソコン作業などで仕事に夢中になり、足もとが冷えていることに気付かないことが

多いようだ。

これがまた腰に来る。


腸を冷やさないためには生ものを避け温かい食べ物、生姜や根菜類などを工夫する。

ビールはとても体を冷やすので避ける。

デスクワークなどでは足もとに暖房器具などを置いて冷えに対処する。


寝る時には腹巻をして、床からの寒気に気を付ける。

レッグウォーマーや湯たんぽを工夫して足元を冷やさないようにする。


いくら面倒くさくてもお風呂を沸かしてゆったり浸かる習慣を付ける。

横隔膜よりも下を充分に温めてから、肩まで浸かって長すぎない程度で上がる。

肩までの長い入浴は場合によっては心臓への負担になる。


それらのことに注意しながら、腰を守って冬を乗り切ってもらいたい。

夏は夏で冬以上にクーラーという敵がいるので、これまた腰の難行であるのだが。


何を隠そう、今僕も腰が痛い。

上記のことに気を付けていても、何かミスって腰に来る。

僕の場合仕事場での足の冷えが腰に来ているらしい。

こうなってしまえば自分で鍼治療とお腹に温灸を施すことになる。


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