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「Let's begin、パート17」大阪市、西区、阿波座

僕はこのブログでもっと楽しいこと、美しいこと、感動的なことを書くべきなのだろう。

でもどうやらいつも悲しいこと、ショックなこと、疑問に思えること、腹の立つこと

ばかりになっている。

僕の人生だって楽しいことや感動的なこともあるのだ。

でもさて思いを 文章に、となるといつもこうなる。

それはやはり僕がオヤジとしてボヤキになってきているからだろうか。

いや、日本の世間がいやなこと、醜いことから目を反らせて楽しいことだけで笑いな

がら、仮の世界を作りたがっているという風に僕には感じられて仕方ない。

僕は僕の中に湧き上がって来る疑問、疑念を大事にしたい。

でもこの国の中ではそれは理屈っぽい、語りがりや、邪魔臭いやつ、と顔を背けられる。

ドイツでは(僕はドイツのことしか分からないが)理屈は当然の個人の主張だったのだ

けれど。

個人の理屈を通すだけの力がなければバカにされる国なのだ。


ということで、僕も普段から抱いている疑念、疑問を個人の理屈、として通して行き

たいと思う。

今日語りたいのは、マスクのことである。

マスクとワクチンは、僕の背骨をしばしば冷たい何かでそっと撫でる。

この数年でマスクはこの国での常識となってしまった。

この日本政府までが「屋外ではもはやマスクを着用する必要はない」と言い出している

にも拘わらず、未だ町を行く人々のほとんどはマスク姿である。


以前ドイツで暮らしていた時、僕は外から日本という国を客観的に眺める機会を得た。

そして日本が、いや日本人が世界全体から見てかなり異常な人種であることに気付いた。

その異常さは時にはとても良い方向に、時には背骨が凍る恐ろしい方向にも作用する

ことにも思い至った。

一言で言えば、ものすごく集団性が強いのだ。


群れながら生きる生物は集団性で成り立っている。

蟻のように集団で行動することで、それが一個の生命体が如く動いて象を倒すことに

も至る。

もちろん我々人間もそうであるが、日本人の集団性は他の国に比べて度を越している

のかもしれない。


数年前から新型コロナウィルスの感染が国内でも蔓延し、国民全員がぴったりと足並

みを揃えてマスクを着用した。

一部の根拠もなく反抗するオジサンたちは着用を拒否して皆から睨まれた。

こうなると「我々は苦しいマスク着用を守っているのに、おまえはなにを一人で楽を

して感染を免れているのだ、もしくはウィルスをまき散らしているのだ!」という集団が

結束する大流が生まれる。

このような非常時に即座にピタリと足並みの揃う国民性のすばらしさ。

この集団性が象をも倒す蟻の結束である。

一方集団から見た異物、足並みを乱そうとする存在に対しては、流れから排除しよう

とする凄まじい力が生まれる。

もはやマスクもワクチンも揺るぎない正義なのだ。

正義の旗の下に悪を排除することは、当然許された正しい行為なのだ。


ここで視点を変えて、マスクというものをもう一度見分してみよう。

コンビニで売っている、数枚数百円の紙切れ。

これを口に当てて暮らすことが本当に感染拡大に歯止めをかけているのか?

言うまでもなく自分の身を守るためには何の役にも立たない。

もし空気中にウィルスが存在すればイケイケでマスクを超えて入って来る。

ウィルスはミクロに小さく、コンビニマスクの表面に空いている穴はとても大きい。

マスクの横も全く皮膚に密着していない。

マスクをして息ができる、ということはウィルスもイケイケであるということである。

N95マスクであれば身を守ることも可能かもしれないが。

テレビの専門家は不織布マスクならウィルスを付着させて捉える、などと言っている

そうだが、そんなことは到底信じられない。

ただ、自分が感染していて、飛沫を飛ばさず人に感染を及ぼさない、という意味では

やや意味のあることなのかもしれない。

そんな中、皆がマスクを着用していたにも拘わらずベータ株やデルタ株の際広く蔓延

したのはどうしてだろうか。

飛沫感染、接触感染、空気感染の違いも知らねばならない。

人々はただただテレビのワイドショーに出て来る専門家たる者の指示することを鵜呑

みにするしかない。

要するに集団の大きな流れとなった民衆をどこかに誘導するのはいとも簡単なこと、

と言わざるを得ない。


今となってはマスクとはどのような民衆意識を反映しているのだろうか。

見回すと皆着用しているから。せずにいるとジロっと睨まれるから。

皆と違うことをする勇気がないから。流れを乱す異物として処理されたくないから。

という無意識な心理が僕には感じられる。

2022年の夏、すでに誰も感染防止のことなど意識にはないのではないだろうか。

にも拘わらず、町ではほとんどの人がマスクを着用している。

いつ着用を取りやめるチャンスを得るのだろう。


この日本人特有の心理は、数十年前僕が生まれる前のこの国の集団心理を思い起こさ

せる。

誰もが一丸となって国のために大きな戦に立ち向かっていた。

戦地で銃剣を手に戦う者だけではなく、国内で留守を守る者たちも足並みを揃えて勝

つまでは欲しがらず、家の灯りを消し、工場に出て働き、戦地に出向いて行った息子

たちのために祈った。

そんな中、召集令状を受け取っていながら戦地に赴くことを拒否して逃げた男がいた。

異国に送られ、恨んでもいない他人を殺したり、殺されたりすることに疑問を抱いたのだ。

憲兵がその男を捜し出し連行し、拷問を課した上殺害した。

男は非国民として罪人と扱われたのだ。

街の人たちはこの男が気の毒、と思っただろうか?

いや、当然の報い、と考えたことだろう。

親も息子を殺害されたことを恨むよりも、息子を恥と考え、夜中にそっと街を出たはずだ。

もちろん数十年経った今なら、何が正当で、何が間違った心理なのかは明解である。

ただ当時集団意識から生まれた巨大な流れのようなものの中で、疑念を抱いたり、一

人でそれに逆らおうとしたものは排除されてしまった。

これが戦争という非常事態の真の恐ろしさだと僕は考える。


もちろん当時の日本国民の意識と、今のマスクを一緒には考えられないだろう。

でも集団性の強い我々が瞬く間に作り上げる大流のすばらしさと恐ろしさを、常に冷

えた頭で危惧したいのである。


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