top of page

更新日:2019年4月11日


2018、9、15

三年生の夏休みを過ぎて二学期に入ると先生方の目の色が変わってきて、一層厳しい

指導に変化し、授業内容もすべてのプログラムを終え、総合的な復習に入っていった。

三年間の多くの授業の内容があまりに膨大なため、どこをどう復習して行けばいいかにも

途方に暮れる。

来る日も来る日も過去問や先生方が作成された総合問題を解いて行く毎日。

そんな秋も深まる11月ごろ、大変なことが起こった。

学校でパソコンに向かって勉強していたある日、おかしな操作をしてしまったのか、

もしくはパソコンの不具合からなのか、突然過去のデータがすべて消えてしまったのだ。

僕は一瞬眩暈がした。

勉強に関する資料はすべてパソコンにしかないのだ。

でももちろんバックアップは取ってあった。

でもそれは半年間怠っていて、国家試験への追い込みに関する資料、大量に解いた

問題集、追い込みに関して先生から個人的に頂いた大事な資料、半年間の授業の

プリントなど、すべて失ってしまった。

何故この時期にこのようなトラブル。

僕は機械と見えない運命を呪った。

職員室に行き、各先生の机を回って、再度もらえる資料は事情を説明した上、

もらって回った。

でも僕はパソコンに入れた資料の端々に授業で先生が述べられた大事なことを

メモしていて、それがとても大事と考えていたので落ち込んでいた。

それはいくら再度資料をもらっても取り返しはできないのだ。

職員室でのそんな僕の姿を見て、ある先生がおっしゃった。

「失った資料の内容は、すべて茶木さんの頭の中にバックアップされていますよ」

まったく慰めにはならなかった。

「そんなこと言ってみたいもんだ!」と心で呟いてとぼとぼ帰宅した。

閲覧数:34回0件のコメント

更新日:2019年4月11日



2018、8、8

押し流されるように国家試験の日が近づいて来る。

「よっしゃ、やるだけのことはやったのだから、どこからでもかかってこい!」とい

うのが理想だけど、なかなかそうはならないもので「あれもまだ頭に入ってないし、

あれはまた忘れてしまっているし、結局あれは理解できていないままだし」という箇

所が満載である。

それでも三年間自分への妥協を許さず、時間だけは十分にかけて真剣に取り組んでき

た、その集中した時間だけが自信のようなものとして胸中にあった。

その上僕は見えないくせに点字がおぼつかないという問題を抱えていた。

点字という技術は生まれつき見えない者でないとなかなかスムーズに使いこなせるよ

うにならない。

子供のころに会得しないとそうそううまくは行かないのだ。

それで学校内の試験、国家試験も含めて我々のような者はデージーというものを使

う。

特別な再生機器でCD-ROMに録音された問題文をイヤホーンで聴き、点字で解答番号

を記入していくのだ。

この録音を聴くという作業がとても時間がかかる。

学校での試験でもちょっと問題が多いともう時間が足りなくなって、最後の何問かは白

紙のまま提出という無念な思いをしたことがある。

最後まで解いてからもう一度見直す、なんて時間は毎回ない。

見直せないというのは大きなハンディーである。

でも「大変だね」なんて誰も労いの言葉はかけてくれない。

なぜならそういう問題を抱えたまま乗り越えて行く途中失明の者はとても多いのだ。

三年生になると通常の中間期末テストに加えて、様々な実力テストが入って来るので、

結局一年間、一か月に一回の試験をこなすこととなった。

クラスメイト中にはもちろん20代前半の者も多い。

彼らは頭が柔らかく、何でもスポンジのように吸収して行き、勉強慣れもしている。

僕のようなオジサンはそりゃ大変だよな、なんて悲観的になって先輩たちや後輩たち

のクラスを見てみると60代、70代の者がいて、素晴らしい成績を収めている。

やれやれ、甘えたことは言っていられないのである。

閲覧数:13回0件のコメント

更新日:2019年4月11日


2018、7、24

脈診という技術は大変奥が深く、いろんな読み方を組み合わせることで体の様々な訴

えを知ることができる。

僕がこの流派に心を寄せた大きな要因が、この脈診の技術にあった。

卒業研究発表に僕が選んだテーマが、この脈診のほんの一部を使って女性の月経につ

いての不快感を少しでも軽減できるか、というものであったため、頻繁に治療院に出

向き教えを乞うこととなった。

さてそこで初めて訓練を受ける訳だが、わくわくした好奇心もつかの間、脈診の難し

さの前に途方に暮れることとなる。

それはそうで、一般に「脈診30年」と言われるほど熟練を必要とされる技術なので

ある。

僕はその時点で無資格者だったので、学校外で鍼を持つことは許されない。

ただただ脈診の訓練を受けるわけである。

学校に行き、僕の研究発表の担当教員の先生にその悩みを訴えると、先生も一緒に治

療院に出向き勉強したいと言い出された。

僕は内心とても驚いた。

何故ならその先生は学内ではとても厳格で、学生の中でも最も恐れられていた存在で

あって、学校外の技術を持ち込むなど一番に反対するだろうと思われたからだ。

我々は授業が終わった夕方に何度も治療院に出向き、共に訓練を受けた。

先生はご自分の出来ないこと、知らないことを恥じて隠すのではなく、全く新しいこ

とを真っ白な心で進んで受け入れて行こうとされ、一学生である僕と共に、全くの初

心者として訓練を受けられたのだ。

学校での臨床治療の場で先生は指導者と言う立場を度外視して、我々二人は手探り状

態の同級生のように、相談し、意見を出し合い、困惑しながら治療、研究を進め

てデータを作成して行った。

この先生はなんと大きな人だろうと、僕は彼の背中を見ながら感動した。

結果僕の研究はとても楽しく、意味の深いものとなった。

今から思い起こせば赤面しそうな稚拙な内容のものだったが。

研究発表会の直前、レポートの冒頭に置く文章を先生に見てもらうため、職員室を訪

れた。

そこには「日本での脈診は未発達で、古くからの教えを無視した手探りの治療ではな

いか」というような攻撃的な内容が記されていた。

「ちょっとこれは過激すぎですかね?」と先生に問うと「いや、これでは生ぬるい、

もっとダイレクトに述べるべきだ!」と言われ、更に過激な内容にアレンジされてし

まった。

先生は僕を見てニヤっとされ「だって事実だからね」と言われたことを覚えている。

それは関連的にご自分を批判することにも繋がることで、先生の風刺精神と熱い

情熱に感服した。

そして研究発表の当日、文字通り僕の発表は喧嘩を仕掛けるようなものとなった。

発表を終え席に戻ると、先生が近づいてこられてポンと僕の肩を叩かれた。

閲覧数:50回0件のコメント
bottom of page