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ここで語ることは、社会的モラルに僕が逆らうような発言でもあるので、あるいはデ

ンジャラスな話題でもある。


先日どこかの町で、60代男性が、パーキングで見かけた若い男性がノーマスクであ

ったことに腹を立て「おい、マスクせいや!」と絡んで若い男性の背中を押したこと

でつかみ合いになり、60代男性は倒されて首を絞められた、という事件があった。

男性は倒れた時の打ち所が悪くて、脊髄損傷を起こして下半身不随となったらしい。

若い男性は傷害罪で逮捕。

車椅子生活を余儀なくされた男性は「あんなことを言わなければよかった」とコメン

トしているらしい。


さてこの事件を聞いて、僕はつくづく考えさせられる。

まずこの男性二人は互いに手を出してしまったことで特別な例と言えるし、どっちも

どっちである。

ただ、我々にとってマスクとは一体何なのか、ということを今一度考えてみる必要が

あるのではないだろうか。


感染対策は皆で足並みを揃えてかからないと意味がないし、こういう非常事態だから

こそ全員が一丸となって感染を抑える努力をする必要がある。

一方一日中マスクを着用していることによる害もあるのでは、と僕は感じている。

我々は新しい酸素を吸って、CO2を吐いて血液のガス交換を行っている。

ほんの一時期に着用するマスクなら問題ないが、2年間長時間マスクを着用したまま

生活していることで、自分の吐いたCO2が血管内に蔓延し様々な身体的、また精神的

問題を引き起こし始めているのではないか、と僕は考えている。

少なくても僕自身はその害を感じている。

生き残りをかけて変異し続けるウィルス。

飛沫感染という感染形態からデルタ株を皮切りに空気感染を主体と変化してきてい

る変異株。

いまやマスクはほとんど意味を成さないのが現実ではないだろうか。

マスクを着用していても、呼吸が出来ている限り感染をシャットアウトすることは出

来ないのでは。

それでもマスクは着用するべきだろう。

ただ科学的に、疫学的に考えて着用の必要のない場所もあるのではないだろうか。

そのような場所ではできるだけマスクを取りたい。

一定の屋外でのマスク着用は必要がないのでは、と僕は考えている。

感染は建物内で遂行される。

この国のことだから、皆がマスク着用を徹底していたデパ地下でデルタ株が蔓延した

ことを見ても、密閉した建物内、マスクが意味を成さない、という結果を示している。


日本社会の良いところであり悪しきところでもあるモラルという概念。

マスクをしていること自体がモラルとなって、その社会的ルールに反している者を批

判し、排除しようとし始める。

これもマスクがもたらす大きな害の一つである。

戦時中と同様、非理論的なモラルが独り歩きすることによって生まれる蔑視、虐め、

嫌悪が我々の心を荒ませる。

無自覚に受け続けるマスクによるストレス、その独り歩きするモラルに僕は疑問を呈

したいのである。


専門外である我々は、マスコミによってもたらされる情報を信じるしかない。

でもその情報が本当に裏付けされたことなのか。

確信をもって信じることができるのか分からないのだ。

でも我々はマスコミを指導者として取り入れるしかない。

そのようにして社会的モラルが確立して行く。

それでいいのだろうか。

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僕はドイツに住んでいたことでドイツとその周りのヨーロッパ諸国のことしか分から

ないが、彼らは根っからの議論好きである。

一つのことに対して議論が始まれば一晩中でも続く。

議論というのは喧嘩ではない。

相手の主張をきちんと聞いて、その意見に敬意を示しながらも自分の意見を余すこと

なく表明する。

彼らはいわゆる議論というゲームがとても得意である。

僕もよく彼らの議論に言葉の壁が立ちはだからない程度に参加した。

しかし議論に興が乗ってくるともう話している内容は理解できない。

7年住んでいても理解は不可能であった。

しかしそこから喧嘩に発展するようなことはまずなく、穏やかに会話は進められた。


一方日本人は議論という行為がとても下手である。

議論すればすぐ胸ぐらを掴んで喧嘩となり、自分の意見を押し通すことばかりに夢中

になる。

それがいやだから議論は避け、すべてを冗談で紛らして笑って過ごしている。

誰かが議論を持ち出せば、すっとなにげなく話題を変えて意見のぶつかりを避けて人

間関係を保とうとする。

しかしこれでは我々の中で問題を手捏ねて形を成していくという結果をもたらさない。

玉ねぎと牛肉のミンチと卵と小麦粉を捏ねてハンバーグの形にするみたいに。

材料がばらばらのままで放置され続けている我々の生き方が、とても特異的である事

実に我々は気付いていない。


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1月に聾学校で歌とお話しで一時間の講座を、と依頼された。

いろんな学校に呼ばれて講演をやってきたが、聾学校は初めてのことである。

鑑賞する生徒は中学部で、もちろん彼らは聴覚に障害を持っている。

全く聞こえない子は今回一人もいない、ということだが、それでも僕の歌声がどのよ

うに彼らの耳に届くのかは想像できない。

僕が話している内容は先生方が手話とフリップでおおよそ補助して伝え、演奏する曲の内

容も視覚で確認できる方法を考えるということ。

だから前もって打ち合わせたこと以外のことをMCすることはできない。

これはなかなか難しい課題である。


それに加え、視覚障害を持った者が声楽を通じてライフワークを築いていることの楽

しさと苦しさ。

そこから得て来た何かを話すことで、それらが彼らの糧とならなくてはならない。


今日授業を担当されている先生と打ち合わせのミーティングを行った。

先生は健常者なので手話もそこまで巧ではなく、あまり早く僕が話すと手話が追い付

かないし、難しいことを言うと手話で表現しきれない、ということである。

なるほど、いよいよ手立てを工夫しなくてはならない。


我々の時代もそうであったが、授業中わーわー騒がしい中学生も、シューベルトの魔

王だけは集中して聴いた。

今回の中学生もやはり魔王が大好きで、是非演奏してほしい、との要望があり、これ

もやはり歌詞の内容をうまく伝えることに大きな課題がある。


何はともあれ、難しい分楽しみでもある。

ただ講演は一時間目ということで、朝8時半からのスタートらしい。

歌うには辛い時間である。




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